Archive for April 2005

30 April

いい日でした?

だんま 本日、昼過ぎ、家内と花を買いに行き、植える。ペチュニア。10月まで楽しめるという。家内が喜ぶとぼくもうれしい。(今回は「ぼく」調でかいてみる)

名言=「故郷、忘じ難く候」(寺山修司だったか。かれは天才だ)。 

夕方、写真が届く。「ひろば」に載せたい。送り状に短歌が添えられていて感激。

高田渡が亡くなって、このところ追悼コンサートの記事が目に入る。魅力的なアーティストだったなぁ。吉祥寺には行こう。自転車に乗って?

はかどらない仕事に疲れる体。すこし苛立っている。滝沢さんの評伝はエピソード満載で漫画にしてもぜったいおもしろい、などと考える。

今日新聞でノーベル物理学賞の小柴さんが・・・(以下を読みたい方は続き欄をどうぞ。あと五百字くらいです。)



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23:07:25 | joy | 1 comment | TrackBacks

世界の中で生きる人間に対して、滝沢から伝わる「豊かさ」とは?

joy 滝沢克己のホームページの作成担当になってから数ヶ月、少しずつページを充実させています。

 滝沢克己の紹介については、かなり充実してきました。しかし、滝沢をいまどう読むか、という読みの試み、あるいはその事例を示すというものまでには到っていません。でもそれがないと、単なるデータベースのままに止まってしまうと思います。そこで今日も、「滝沢の継承」というテーマのページを、書き進めていました。

 滝沢のいうことは、形を変えて、いろいろなところで読み取れるのではないか、思想的に響き合うものを、随所に見いだせるのではないか。様々なものを読み聞きして、そこに滝沢との思想的な照応を感じるにつけ、それらを貫くトータルな世界の見方というものを示すことができるのではないか、と思うようになったのです。

 問題は、人間を超えた存在(=神)と、人間や世界との関係です。これについて、現在も、いろいろな考え方があります。「神の思いが実現したものが世界である」「神が成長・発展するために人を創った」「神である人の思いがすべてを作る」。こういうことは、直接滝沢が言っていることではありません。

 しかし、神が根柢から人に働きかけているから、人の問いや煩悶がトータルに断ち切られ、かつ人がいだかれている、と神人関係を説くのが滝沢です。そうであるなら、その神の包括的な働きは、人間や人間がいる場としての世界をトータルに生み出していて、神の思いの実現が世界である、という考えには、後一歩でつながることです。

 ここがつながれば、滝沢の言っていることは、神人の接触の一局面だけではなくて、さらに豊かな広がり、奥行きをもって受け止めることができるのではないか、と思うのです。

 大事なのは、滝沢が人のエゴの思いや行動を徹底的に断ち切る神を言っていたことです。これで人がエゴを神との関係なしに花咲かせようということは、宇宙レベルで不可能になります。ただそれだけで立つ人というものを、滝沢は認めていないのです。

 ここで、人は神や世界との関係においてのみ、人となりうる、ということが出てきます。この真実が、人を神と世界の前でたまらなく自由にします。他に対してはエゴでなく、他との関係において人になることに気が付くからです。

 そうなると、神人の局面の指摘は、人間の神と世界との関係の全体にまで広がりを持っていたということになるのです。

 この意味で、神は人を通して、世界を生み出し関係をもっている、といえるのではないかと思います。

 これが滝沢を通して、豊かな世界のつながりを味わうことになる、という真実の広がりになるのではないかと思うのです。

 今日の話は、まだかみ砕けていなくて難しいかも知れません。しかし世界に生きていける豊かさを感じることができれば、さいわいなことです。


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03:05:54 | joy | No comments | TrackBacks

29 April

『思想のひろば』は、これから何を語るのか

joy 滝沢克己が焦点となった会誌『思想のひろば』(滝沢克己協会編)は、もう16号を数えています。その編集も、本部がこちらになったので、私joyとだんま氏ほかで、進めることになりました。

 滝沢さんの遺徳、その思想の魅力を慕う人々のエネルギーで、彼の死後に創刊されたこの会誌は、数々の原稿をまたたく間に集め、ここまで発行されてきました。しかしそれをいま引き継ぐにあたり、単に同じ事の繰り返しで済ませるわけにはいきません。

 滝沢の死後21年も経って、書店に出回る彼の本も減っていく中、いまなぜ滝沢なのか、ということをしっかり認識している必要があります。
 
 そこで今回の号は、「いまなぜ、滝沢なのか」を改めて問い、現在の関心で滝沢を読む、ということをしたいと思ったのです。

 今晩は、その件で、だんま氏と共に、ある編集委員の先生とお会いしてきました。

 滝沢のは単なる学問でなく生きた思想である。学者でない一般の人が彼を慕っていることにそれは現れている。またいろんな場面に生きる人のなかに、滝沢を語る熱い思いをもっている人がいる。そういう趣旨のことを、その編集委員の先生はおっしゃってくれました。

 現場を生きている先生のコメントを聞き、いろいろな方のそういう熱い思いをこそ、この会誌で伝えていきたい、との思いを新たにしたのでした。

00:21:24 | joy | No comments | TrackBacks

28 April

滝沢がなぜ私を引きつけたか

joy 滝沢がなぜ私を引きつけたかといえば、世界に根拠があるといっているその主張が、嘘みたいに思えた、という驚きの経験が始めにあったことを、思い出しました。

 生きることの根柢は虚無であるから、その虚無を澄み切った目で見通して生きる、ということぐらいしか考えていなかった20代にとって、そうではなくてこの世界に根拠がある、と言い切っている人がいるということは、信じがたい感じがしたのです。

 キリスト教の言説なのですが、単なるキリスト教の信仰というのではない、根拠が実在する感覚というものを、彼の著書から受け取らざるを得ませんでした。

 彼のいうことを受け入れれば、それこそ虚無に酔っている目つきは変わる、斜に構えていることもくすんでしまう、そんな必要もないから、ということになってしまうでしょう。

 決定的で、単純だけど、その言葉を真に理解するには難解で、という滝沢の言説とのつきあいが20代で、始まったのです。1980年頃のことでした。

 滝沢克己が亡くなった後、彼を敬愛する人々が大勢いて、集まりをなしていることを知ったのは、ずっと後のことでした。

00:43:38 | joy | No comments | TrackBacks

やあ、やあ、やあ

だんま 明日は編集委員のお一人と編集長を交えて会議。新しい委員の方で、直接ははじめての会見。今年の会誌『ひろば』についてもご意見伺う予定。会誌は原稿締め切りが連休明け。迫ってきた。特集「いま、なぜ滝沢か」には移転後初の会誌として意義あるものが欲しい。原稿やーい、待ってます。22日には第3回の在京幹事会があって、総会の準備が具体的に動き出しました。あれやこれや詰めていって遺漏なく運ぶのは大変。とくに今年は、すべて初物ですから。やあ、やあ、やあ、って感じです(意味不明?)。
大阪の列車事故、労働現場の過酷な状況が伝えられて唖然。お上の民営化って、怖いですね。民間以上に突っ走る。現場をそんなに追い詰めてどうするっていうの! 怒怒怒怒っ!
00:02:01 | joy | No comments | TrackBacks