Archive for April 2006

30 April

運命の決定とインマヌエルの光

joy 先日の書き込み以後、Blogに反応がありません。

 ただ、だんま氏より、メールで否定的なコメントをもらっています。
 公開した方がいい部分があるので、だんま氏に了解を乞い、一部を引用します。


>さて、運命ですが、わたしは滝沢のインマヌエル・自由の原点においては、運命的なものはない、と了解しております。これは人間が神のごとく自由である、ということではありません。逆に、自分の存在は受け取る他ないもの、神の決定を受けたものです。しかし、それを運命とは感じない。運命とは思い通りにならない暗いものの謂いだからです。つまりまだ神の決定を受け入れられない「我性」から見た世界だからです。

>むしろ、神の決定を受けたところから人間の決定が生じる。自由が生じるのです。同時に自由の苦悩も生じますが、神の決定があるからこそ真に自由な決定もありうるし、現にあるのです。これを哲学的には「必然性の認識が自由」と言うのだと思います。

>必然性を人生行路の先決定(あらかじめ決定していること)ととって決定論と解するなら、答えは「無記」となります。そんなこと知ったことか。あるいは神のみぞ知る、です。それで何も不安も不満もないです。

>神の決定とその不可知論というのは、逆に人間の励みでしょう。だから考え、生きることができる。

>こんな風に理解していましたから、運命が(わたしの理解する限りのものとして)改めて問題になること自体が私には判らない。滝沢に出会ったことは、私にとって、自分が自分でしかないという暗い思い(運命的なもの)からの解放でしたから。自由の原点・インマヌエルとは言いえて妙です。


 インマヌエルでは、運命の翻弄からは解放されるので、運命を問題にすることはありえないという趣旨です。

 しかし私は、もう少し私の書き込みを進めざるをえません。

 運命(人生)の決定について、うまくことばで説明し切れませんが、自分の行動は、決まっているらしい、という感覚らしきものが、私にはあります。

 それは自分の人生がこうであるのは、偶然ではないだろうという思いです。
 また、占いや未来夢などが未来を断片的にも予知できることに、目が開いたからです。

 だから私たちが未来を知り得ないとしても、人生は変えられない、という気がするのです。

 人生の流れは決まっているのではないか。世界での私のこのありようは、どうにも変えようがないのではないか。この思いが訪れてくるのです。

 そして私は現在、ここを経ないと、インマヌエルの神に出会わないような気がするのです。

 自分の人生行路という、どうにもならない決定を受け入れたときに、神からの光が射すのではないか。

 決定そのままで、世界全体が自由の場所となる。ということです。
 
 人生の決定、運命の決定、そのままで「よし」、となる。

 これが世界での、神人関係ではないか、そう思えます。

 こうして人は自分の運命=使命=天命を知って生きることになる、ということではないかと思います。

 運命とは無の働きではありません。世界での人のありようだと考えています。ありのままのありようです。否定的な色のついた表現ではありません。

 その全体を人間が受け入れたとき、世界と人全体が輝く、あるいは、輝きにさらされる、つまり神の光と出会い、そこに在ったことに気が付く、ということになるのではないでしょうか。

 だから運命の決定でありながら、それに「乗る」ということが起こるのです。神人関係に気が付くということです。決定にして、自由なる原点です。



02:06:53 | joy | No comments | TrackBacks

09 April

運命の決定と神人関係

joy これまで考えていなかったこと、人間の運命の決定ということと、神人関係について考えてみます。

 もしすべての人間の運命が決まっているとすれば、世界という場にあって私に対して物事が生起する局面で、生起とは自由である、という言い方はできないはずです。

 世界にあっての物事の生起とは、運命という流れに沿って、流れのままに起こるものだということになるでしょう。

 ここで運命とは、人生において何を選択し、どういう行路を歩み、誰と出会い、健康や金銭への縁などがどうなっているか、ということを含んだ、私の人生のありようです。

 起こることが決まっていたことだとするならば、私の人生の選択、行動に対して、こうあらねばならない、こうありたい、ということからのあがきというものがなくなるはずです。

起こることに対して、深い得心が来るならば、自分に起きていることをそのままに受け止めて行動していくことで私は尽きていて、そこに主観的な価値判断のつけいる余地はなくなってきます。

 しかしこのような、得心、安心し、自らの運命を悟って生きるという姿勢は、「行為的直観」、つまり世界のただ中にあって、世界そのものを感じつつそこに対して関わりを持つという姿勢とつながることではないでしょうか。

 さらには、自分に対してやって来ている自分でない存在からの導き、呼びかけ、そこに則って生きるという意味では、私でない存在との関係を結ぶという姿勢とも通じるものだと思います。

 ここで、自分からのあがきがなくなるということが重要です。

 もし運命が決まっているとするなら、まず、どうにでもしてくださいという姿勢が、運命の決定に対しての諦めであり、その決定に沿った生となるでしょう。

 するとそこで、運命に沿う生の展開は、自分で自分を証明したり、自分を人に認めさせたり、自分の欠乏を満たしたり、人から吸い込んで終わりにしたり、という自閉的、自己中心的なことではなくなるのです。

 運命のただ中に私があったということは、私のそれだけで閉じた私的な思いをなくさせるからです。

 ここで逆に、世界および世界のありようの根拠とつながった、むしろ自由な人生が始まる、ということになるでしょう。

 まさに「運命に乗る」ということが起こるのです。 

 ここで、自分へのこだわり、自分の自分による証明というものがなくなるならば、それはまさに、「神の意を知った」「神の御心を自らが知る」という生にもなるのです。

 自らの神人関係におけるあり方を知るということは、自らの運命の決定を知り、この意味で自らの天命を知る、ということとつながっていたのだ、ということになるのです。

 そして運命に対して謙虚になれる、それは私という人間存在がそれを元々受け入れるような存在だったからです。

 滝沢さんのいう、神と人の接触の関係、その不可分不可同不可逆は、この機微をいうものだったとも言うことができるからです。

 つまり、いつでも人間の絶対化と傲慢の必要はなかった、ということです。

 運命の決定を知るということは、神(の深い御心)を知るということだったのではないか、と思えてくるのです。

 また運命の決定を知ること自体が、単なる直観の知ではなしに、行動することをともなった直観によって知ることでもあると思えるのです。



 次回の講演会では、(もう次をやりたいと思っていますが)こういうことをも話してみたいと思っています。



00:21:05 | joy | No comments | TrackBacks

02 April

大成功! 盛り上がった講演会

joy 講演会は本日開かれました。講演者はお互いに言いたいことが言え、トークでも議論が盛り上がり、参加者全員が質問で発言して、盛会となりました。主催者として、やってよかったという気持ちです。
 滝沢さんを受け継ぐ多様な理解と、多様な方向性が示された一日でした。
 だんまさん、みなさん、またやりましょう!



23:41:52 | joy | 1 comment | TrackBacks

01 April

いよいよ講演会!

joy いよいよ明日は講演会。
 とても楽しみです。
 自分がふだん考えていることを自由に語れそうだから。
 喜び(joy)を語るのと同じです。
 どうぞみなさん、聴きに来て下さい。
 滝沢さんの豊かな広がりと、「神われらと共にいます」の究極の姿、日常の姿について、語ってみたいと思います。

 終わった後は、シビックセンターの展望階での2次会もあります。

 どうぞよろしくお願いします!



21:52:36 | joy | No comments | TrackBacks