Archive for June 2006

24 June

総会・等石忌が開かれました。

joy 総会・講演会・等石忌が本日無事おわりました。


 青野太潮氏の講演は、パウロは贖罪論をいっていないこと、十字架でのイエスの弱さが強いものとなるという逆説に、神の救いの行為があらわれているといっているということでした。だとすれば、それは十字架で初めて救いがあらわれたのではなく、太初よりの神の救い(イエスの登場以前からある神の救い=神の第一義のインマヌエル)を言っているということになります。

 このような滝沢さんの思想の影響が、氏自身を含め現代のキリスト教神学者の何人の方にも及んでいるという報告でした。

 とても元気づけられるお話だと思いました。

 等石忌では滝沢先生とのいろいろな想い出が語られました。

滝沢先生に献杯

 滝沢さんをどのように受け継いでいくかについても語られました。

シビックセンター26階ホールでの等石忌

 シビックセンター26階からの夜景はとても美しいものでした。

26階からの夜景 東京ドームと後楽園ラクアが真下に



23:24:41 | joy | 3 comments | TrackBacks

23 June

あすは総会と等石忌です。

joy あすは総会と等石忌です。

 集まる人は去年に比べて減りました。

 でも九州からも来てくれます。

 新しい講演会の試みもすでに始まっています。

 総会後には、新約学者・青野太潮先生の講演もあります。

 滝沢さんはどのように受け継がれるのでしょうか。

 ダヴィンチ・コードに対してもことばを持つ人、現在の宗教対立に対してもことばのある人、そういう人を慕っての、集まりです。

 ここから新しい芽は、そして泉は湧いてきます。

 この喜びと泉とを、失ってしまうことはできません。

 そう思えばこそ、この滝沢協会を推進しているのです。

 その喜びを共有する日が、明日です。

 シビックセンターの26階からの眺めも、最高です。

 そこでのみなとの集いも、最高です。

 どうぞ滝沢さんを愛する皆さん、ご参集下さい。

 喜ぶべき、God-bye!

 
22:46:01 | joy | 56 comments | TrackBacks

04 June

日記風に・2

だんま joyさん、コメントありがとうございます。本日、わたしも泥縄式に「ダ・ビンチ・コード」見てきました(以下「コード」と略)。

joyさんのコメント、だから納得いきます。多少誇張して言えば、西洋の歴史がイエスを巡って動いてきたこと、イエスが神か人かで血眼になってきたこと、日本人には何のことやら遠い話のようですが、それこそ西洋の核心です。

そういうことを滝沢は「本場」の西洋人と格闘して教えてくれた、だから凄い、といいたいのです。日本人にはその凄さが全然判らない。

私が滝沢を「日本の恩人」というのは、一つには、(私たちのように、というのは手前味噌ですが)「コード」を真剣に受け取る土壌を作ってくれたこと、さらにキリスト教に対する偏見と劣等感を払拭してくれたことからです。これは秀吉の時代にキリスト教が日本に入って以来の課題を解いたものです。その核心がインマヌエル論です。問題は…


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01:32:20 | joy | 1 comment | TrackBacks

02 June

日記風に

だんま 久しぶりですが、私はやっぱり日記風に雑駁なものしか書けないようなので、その線で行かせて頂きます。悪しからず。

ダ・ビンチ・コード、joyさんご夫妻が見に行かれた頃、私は渋谷で別の映画を見ていました。リュック・ベッソンの「アンジェラ」です。

ところで、渋谷は何年ぶりかでしたので、少し早めに出て昔馴染みの書店に寄ろうと思ったら、アララララっと、ない、ない。あんな大きな書店がビルごと消えている。

信じられない私は馬鹿なことに3・40メーター向うまで歩いてみた。丸井がある、タワーレコードがある。しかし書店はない。気がつくと、周りは若い人だらけ。白髪交じりの私は浦島太郎状態。

諦めて引き返す。みな若い。おいおい、渋谷ってこんな町だったのか。若い時は気がつかなかっただけか。まったくの御殿場の兎になってしまった。

仕方なく時間つぶしにカフェに入る。いやー、恐るべし。みな若い。ほとんど女の子。出ようと思ったけど行くところを知らない。じろっと見られながらも、我慢我慢で隅に座って時間をつぶす。道玄坂、109の向いのカフェだから無理もなかった。不明を恥じます。

冷や汗をかきつつすぐ側の映画館へ。アンジェラ。ベッソンがパリの街を背景に白黒で撮ったというので、ああ、久しぶりにパリが見たいの渇望で行った次第。もちろん、映画自体への関心もあった。

美しいパリが見られた。うれしい。でも・・・ベッソンは何を見せたかったのか。愛と平和だと新聞インタビューにはあった。でも・・・。

 



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01:32:12 | joy | 1 comment | TrackBacks

01 June

神は人間の依存や安心を許すか? 行為的直観で出会う神

joy 行為的直観とは、私が世界に対して投げかける、存在のかかった行動と知の一体であると理解しています。

ためらいや自閉がありません。

このとき、私は神と出会うでしょうか。出会うとしたら、どのような神と出会うのでしょうか。

安心の神と出会うことになるのか、というのがいまの問いです。私はどちらかといえば、これまで神にやすらぎ(安心)を求めてきました。

しかし安心を求めるなら、世界に行為的に関わることになるでしょうか。私はそのように世界に対して関わりたいのではありません。行為的直観的であることが、毅然とした究極の関わりではないか、と考えています。

だからそこでの神との出会いがどうであるか、いま考えてみます。

神が滝沢のいう通り「起ちて歩め」というとき、その神は究極の安心を与えるものでしょうか。

その神が私のよって立つところだといっていいでしょうか。

でも安心で止まらせないのが、行為的直観であり、そしてまたそれに応ずる究極の神の働きではないでしょうか。行為的直観を可能にする神です。

そうすると、このときの神は、私がすがって安心するような神ではなくなってしまいます。

神は私の依存を許す存在とはいえないでしょう。

私からすれば、そのような依存が神に対する姿勢に残っていたことを認めざるをえません。神によってやすらぎたいという思いです。

神と人が不可分不可同不可逆の関係だといったとき、そういう誤解をしてしまうなら、これは誤りではないでしょうか。

神でなくて、阿弥陀仏だったらどうでしょうか。なおさら「いだかれたい」という気持ちが出てくる信の関係にならないでしょうか。

でもそう思うとき、人間の(私自身の)停滞が潜んでいるように思います。

依存できない神とはなんでしょうか。人に対等を求める神でしょうか。自立させて巣立つことを求める、親としての(父なる、母なる)神でしょうか。

神は絶対であっても、私の依存の対象ではないと思います。そうすると神への私の取ることのできる最終の、究極的な態度とは、どんなものでしょうか。

「起ちて歩め」と促され、それに従って行為的直観的に生きるとは、神への依存と停滞ではなく、坦々とした日常の作務・行動となり、それで一刻一刻満たされ、いつも明るいものではないかと思います。




00:01:00 | joy | 2 comments | TrackBacks