Archive for January 2007

27 January

新年の近況など

だんま  今年初めての書き込みです。

 会員・読者の皆さま、『思想のひろば』は3月発行を予定しています。もうしばらくお待ちください。また、在京幹事会が2月1日にあります。今年の予定、今後の事など話し合います。

 昨年からの繰越しですが、本ブログの「世界認識」、つづきを期しています。もうしばらくお待ちを。

 サロンでは、『仏教は本当に意味があるのか』(竹村牧男、大東出版社)が気になっています。これも近くまた(サロンで)取り上げる予定です。昨年『釜ヶ先と福音』(岩波)と並べてあげておきました。

 さて、今年になってjoyさんがネット空間、web、googleに新しい展開を探っています。もう少しjoyさんの主張を聞いてから感想を書きたいと思います。

 暮れから正月にかけて、初夢じゃないですが、予兆のようなものを感じる出来事を。




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03:09:57 | joy | 7 comments | TrackBacks

20 January

神はWebに住まうか そしてGoogleの神とは?

joy 先日の、Webの知が、群衆の叡智、もしくは集合知をなす(梅田望夫氏のBlog記事)、ということについて、もう少し考えてみたいと思います。

 集合知とは、創造的なものがつながっていることだと思います。Web上でなぜこれが成立しているのか。
 このことは、一人一人に創造的なるもの(すなわち神)が宿っているという気づきによって、知ることができるのだと思います。この気づきこそ、私自身が自分自身の限界点で神と向き合うことでもたらされるものです。

神への知があればこそ、Webの無限にも向き合うことができる、といえると思います。Webのこの無限性、全体性へのまなざしを持って、WebにWeb2.0と呼ばれる双方向的な革命をなしとげた者は、Googleです。

 Googleは、これまた梅田望夫氏『Web進化論』によれば、神の視点をもってWebを見ているとなります。ここでGoogleの神とは、どのような神なのでしょうか。
 世界を全部データとして把握し、検索によってすべてのデータに容易にアクセス可能にする。世界全体を把握しようとしていることで、Googleは支配者としての神に立とうとしているのか、と思えるかもしれません。

 しかし私はこれは、僭越ながら述べさせてもらえば、Googleが知の全体や自分自身に対し、開かれた姿勢でいるか、閉じているかによるのでは、という気がします。つまり、無限性やその気配への、硬直的でない姿勢をもっているか、否か。これがGoogleが世界を支配する神に立つか、それとも無限性である神に向き合おうとしているか、を分けるような気がします。

 創造的なもののつながり、創造の母体である無限性、これを思うことがいま、最も優れてWebの総体を受け止めることになるなら、そのWeb的創造が、いま神の現前によって、私自身の内でまさになされることに、参与したいと思います。
 
 これはWebの無限と私自身が、創造の神によってつながっている、ということです。すべてに先だって、神が私たちみんなの元にいた、ということです。ここに、私たちのWebでのすべてのエキサイティングな創造的行為の、始まりがあると思います。つながりを実感し、実現できるからです。




*Blogの検索ではGoogleをしのぐ、テクノラティに参加してみます。
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11:41:37 | joy | 1 comment | TrackBacks

11 January

神人の場であるネット空間

joy  滝沢さんの原事実の可能性をWeb上で語りつつ、その未来を問うています。

 Webといってもここにどれだけ人が来てくれているかわかりません。
 私たちは誰に向けて語っているのか、と感じてしまいます。

 さて、『Web進化論』の著者、梅田望夫氏は、そのblogで、「何かを表現したって誰にも届かない」という思い(Web上の「踊り場」)について語り、しかしその先にある、Wisdom of Crowds「群衆の叡智」の反応に、これからのWebの可能性を見ています。
 つまり届かないと思っていたのが、きっと届くはずということです。

 梅田氏はWeb上で多数の読者の反響を得ている上での発言なので、読者の存在がほとんど感じられない私たちが、彼の感慨に乗って書くのはおこがましいことではありますが、読者が皆無かもしれない中でWebで語り続け、その上でWebの現場で孤立せず本物でいようとする。これは難しいことだと思いつつ、人へと語ってきました。
 もしここでの滝沢さんのインマヌエルの原事実に関することばが孤立しているとしたら、それは語りであるとはいえず、おかしいことなのです。ここで問われているのが、私たち滝沢に関わる者の、原事実に則った生き様であり、他とのかかわり方だからです。

 しかし私たちのことばは、インターネットの集合の知、群衆の叡智には届いていないのでしょうか。

 他方私は、Web上を、たとえば「はてな」や、「digg」などのソーシャルブックマークを初めて覗いたときは、そこで刻々溢れる新情報と、それを伝える無数の読み手の活気の渦に、インターネットの集合知、あるいは「群衆の叡智」の片鱗にせよ、そのありがたさを痛感してしまいました。
 そこはとても刺激的な場所で、この創造と快適な革新の場は、創造の神的なものが現れうる場ではないかとすら感じたのです。ここに参加してみれば、かつてない自由と革新を感じます。この活気の先には、あえていえば、神的な究極の叡智が現れないでしょうか。これが創造性の開花でなくてなんなのでしょう。このような場を、Webは生み出していたし、もっと生み出しうるのではないか。

 しかしそれでいて、そこに単に目を奪われず、あえて滝沢と共に語るとすれば、神とは場に現れるといっても、実はこの私自身にこそ来ていて、私だけにしかこないということに気づくしかないのではないか。私という存在の根幹に、神がいたからです。しかもそれは、Web上の集合知と同等でつながっている場だと思います。

 なぜなら、神は私に個的に来るのであっても、孤立的な神はいるはずがないからで、神はひとりひとりに平等に来るし、そして人と人の根柢に働く者だからです。

 こうしてみれば、滝沢の原事実、神人の原関係は、私であると同時に、私がそこにいる集合知の空間に、確かにあるのであって、私たちはそのような、Wisdom of Crowdsのネット空間にいることに、間違いはないといえるのではないでしょうか。

 つまり、私たちの原事実の語りは、孤立でも無縁でもなく、Webの無限の領野に、その広がりをもっていたということになるのです。

 Webの集合知、群衆の叡智にこの可能性を見ること、神人の場をみることができること、これが未曾有のインターネット時代で、滝沢の神を語る、最大の意義にはならないでしょうか。
 つまり、私たちの思いは、届くものなのです。ここで集合知は、自立性のない知でなく、自立者たちの知です。そして私はここにすでに、参加しています。

 神とは創造の根拠として働いている存在です。Web文化は、かつてない創造空間であり、その体験を味わうことができる。これが新たに神を語り、Web文化の無限の可能性に信頼するということなのではないかと思います。

 だから、私たちの滝沢の語りは決して孤立した語りではなかったし、常に広大なWeb空間に向けて開かれた、共通の叡智を語っていた、ということになるのです。そのことにいかに自覚的でい続けるか、これこそが私たちが問われていることではないでしょうか。



00:39:00 | joy | 3 comments | TrackBacks