27 December

『わたしが治る12の力』(上野圭一・著)と野口晴哉と法然上人

寺日誌: 2005年6月に東京で開かれた等石忌(滝沢克己を偲ぶ会)の際に講演をいただいた鍼灸師・翻訳家の上野圭一さんの書き下ろしがこの12月に発刊されました。『わたしが治る12の力』(学陽書房)1800円(税別)、副題は「自然治癒力を主治医にする」です。
6月の講演会ではすでにこの「12の力」の内容を惜しみなく披露してくださったので、当日お聴きの方はすでにご存知の通りです。同書は「12の力」それぞれに1章づつを当てた12章の構成――?自然力 ?場力 ?感応力 ?無意識力 ?代謝力 ?呼吸力 ?信念力 ?イメージ力 ?放棄力 ?絆力 ?愉快力 ?患者力――です。一家に一冊・家庭の常備薬としてぜひお買い求めの上 中味をお読み下さい。どなたにもどれかの章には必ず強く思い当たり、惹かれる箇所があると思います。

さて今日は、同書のお薦めはもちろんのことですが、著者・上野圭一さんが整体の野口晴哉(のぐち・はるちか)の言葉に触発されていることから、思わずここに書いておきたくなることがあって出てきました。
野口晴哉(1911〜1976年)は関東大震災の罹災者の身体を診たことを契機に、愉気(ゆき)という手のひらで気を送る方法(本来の意味での「手当て」)と、活元運動という体操の一種により身体の弱り、滞り、不必要なねじれを解消させていく方法を普及させました。咳やクシャミ・鼻水・発熱・炎症といった風邪の諸症状、あくび、寝相、記憶をたどる時に頭に手をやる仕草…これらも無意識の活元運動とされます。野口整体について現在入手しやすいものには、ちくま文庫の『整体入門』『風邪の効用』があります。
上野さんが『…12の力』で紹介し、考察の対象とした野口晴哉の名言は「病は治るもの也 何かをしなくとも自ら(おのずから)治るもの也 治らざるは、自分が病んでいるから也 自分が病まねば 病は自ら去る也 それが病むということ也」というものです。これは市販本ではありませんが『偶感集』という野口の断想集からの言葉です。同書のタイトルが『病気が治る12の力』でなく『わたしが治る12の力』である所以です。

野口晴哉(はるちか)は、畳の下に隠された一本の針のありかを手の平からの気によって探しあて、前を歩いている人に気を送ることで、後ろに振り向かせることができ、電車の座席に座っている人を気によって立たせるように(立ちたくなるように)誘導することができ、滝の音をエイッ!という気合により止める(いや、滝の流れを一瞬止めたのだったか、ちょっと定かではありませんが)ことのできた人でした。この気は人間誰しも持っているもので、実際、野口の直弟子たちも修練の結果これらが出来る人たちでした。誤解のないように添えておきますが野口整体はこれらのことが出来ることを目的とするものではありませんし、一方、出来たからといってそれは人間の力の一極であって、超人的な技(超能力)として誇ることもしませんでした。野口は神や宗教を語らずに、だれもが持っている気の働き(すなわち身体そのものの生来的な力)に気づかせようとつとめたただけでした。
滝沢先生は晴明教での浄霊の業を「神人の関係」を踏まえて説き明かそうと試みました。もしもあの時滝沢が晴明教ではなく、神を説かない野口整体に出会っていたら、身体論の発端がどうなっていたろうかと想像します。≪※注/「神を説かない野口整体」とはこの場合、滝沢の言うインマヌエルでない神を説かなかったという意味はもちろんのこと、インマヌエルとしての神や晴明教での明主様というような存在も、整体では前面に出てこない≫
今年6月の上野圭一さんの講演でも、野口晴哉の名がちらりとあがり、滝沢克己の表現のまどろっこしさよりも野口の直截さを評価したように聞こえた個所があり、滝沢の著作を読む以前から野口整体にお世話になっていた私には大変面白かったのです。果たして、上野さんの新著には冒頭から野口晴哉の言葉が紹介されていて、ああやっぱり!と思った次第です。≪注/ただし、『…12の力』には、わたしと自然の関係において滝沢の名前こそ本文には出てこないものの(巻末に参考文献として記載あり)、その影響がはっきり記されていることも念のため付け加えます。≫

野口晴哉は人間本来の力と各個人特有の体癖を説くだけで、いわゆる宗教というものを表立って説きませんでした。しかし彼が非宗教的思考の持ち主であったかといえばそうではありません。
同じく『偶感集』の中に「好きな十人」という野口の好きな人物10人をあげて評する文章があります。

「荘子、キリスト、臨済、白楽天、バルザック、ドビッシー、ヘンデル、ルビッチ、法然、カザルス。
 (中略)……臨済の現実肯定のキビキビした姿、馬祖の現実を大きく動かす力、ヘンデルの逞しさ、それらを近代的に小さくまとめたバルザック、好きだなあ。しかし法然は私のもっとも好きな、たった一人の日本人だ。彼の細心な逞しさを見ないで日本の宗教を語ることは出来ない。しかしドビッシーの逞しいニュアンスを見逃して近代の音楽を聴くことは出来ない。この二人の裡の動きに、新しい世への閃きを感じない人は、同じ道を行く人ではない。……」

私が野口整体と、自らの宗旨とは全く何らの関係無いところで出会っていただけにこの文章はまことに嬉しい限りでした。
終わりにもう一度.一家に一冊上野圭一.『わたしが治る12の力―自然治癒力を主治医にする』(学陽書房)1,800円(税別)。野口晴哉。法然上人。三題つながったところで お後がよろしいようで……



 
14:25:14 | joy | 3 comments | TrackBacks

24 December

一陽来復・聖人降誕

寺日誌:一陽来復という言葉があります。「易学」に出てくるそうで、この日を境に畳の目ひと目づつ日脚が伸びていく冬至の日を指し、易では、悪いこと(陰)が極まってよい方(陽)にむかっていくことを同時に意味します。春に向かって踵を返すための冬至の早い日暮れは私も好きです。クリスマスの日を、ローマ土着のこの一陽来復の祭りにぶつけて設定したのは、(嫉妬を込めて言わせてもらうと)極めて良いアイディアでした。

新聞によると若い人のクリスマスの過ごし方が変わってきたそうであります。高価なプレゼントを用意して愛する人とどこかで待ち合わるというのではなく、家族と過ごしたり、あまりお金をかけずに小さなパーティーを開いて仲間と過ごすという風に。「変わってきた」と言っても、聖しこの夜にしょせん祈りが欠如しているのですから、どこも変わっていないわけでありますが……寺に居てクリスマスの事なんか書くから何だか「小澤昭一的こころ」みたいになってきた……。

私は異教徒でありながら、聖母マリアの(←歳暮マリアと変換してきた!)処女受胎を、子どものように事実として素直に信じています。教会の聖職者の方々にはこの意味論だけは哲学者然と述べるものの、実際には信じていない方も少なくないと聞きます。信仰が足りませぬ。滝沢先生も、イエスの癒しの事実は受け入れても、マリアの処女受胎は史実だったろうと真正面から言わないのは公平さを欠いている、と思います(イエスの復活についてもまた然り)。しかしこれは滝沢の文脈とはなんの関係もありません。

『聖書を読む』(創言社)の滝沢の読みの凄みは、このように史実として信じているといってもそれだけでは意味がない、意味論だけ説いていても本当に分かったことにならない。マリア(の胎内)を通して起こった出来事――まったく有無をいわさぬ強引きわまる一方性――はわれわれの中にも起こることだと言い切ったことです。絶対に信じるものかと意地を張っていても(あるいは自分では十分に信じているつもりでも)、それはたぶんまだ天使のお告げを受ける前のヨセフ・マリア夫妻の状態にしか過ぎないというだけです。

キリスト者が異教徒の信仰に単に理解を示したり、類似点を見出したりすることは決して、教会の外の救いの可能性や相互信仰の可能性にすぐつながりません。「教会の外の救いの可能性」とは「教会の内で救われているつもり」の安住に警策をふるうものです。同じことは「寺」に対してもいえます。滝沢の怖さです。

でも今日はクリスマス・イブです。布団に入る前に、聖書の一節を一読いたしましょう。
「…彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2−6,7)

19:13:59 | joy | No comments | TrackBacks

07 December

滝沢克己協会公式ホームページがあります

滝沢克己協会事務局より 下記の記事にコメントをいただいた「おかの」様。「哲学ブログ」の一覧から当コーナーを見つけられたとのことで、思わぬご縁と投稿に感謝・御礼を申し上げます。このブログは「滝沢克己協会」のホームページ『滝沢克己の世界』に付随しています。このHPには掲示板サロンがありますので投稿もお待ちしております!http://www.takizawakatsumi.com/ 
または右のMy Linksの「滝沢克己の世界へ」をクリックして下さい。

10:51:53 | joy | 1 comment | TrackBacks

03 December

恥ずべきもの

寺日誌: 昨夜、輪廻転生(ほかいわゆる「オカルト」現象)に話が及んで、その後帰宅してからふと井上良雄さんの『神の国の証人ブルームハルト父子』(新教出版社)を開いてみたくなりました。この本は1982年の刊行で,滝沢の『新興宗教の哲学』(=『現代の医療と宗教』〈創言社〉)と同時期に書かれています。両著書、全く異なる世界の出来事を通して、別々に書かれたのに、相互が共鳴しあっていることに改めて驚かされます。

 ブルームハルト父は、周囲に超常現象を巻き起こしながら痙攣している娘を癒したのを発端に、リューマチ、火傷、眼病、肺結核、精神病、不具等の数多くの人を毎日癒し続けました。また彼は主の再臨を待ち望み、どこで主が再臨されてもいつでも馳せ参ぜられるようにと常に馬車を家の前に用意していたといいます。

 著者・井上良雄さんは、こうした「恥ずべきもの」、荒唐無稽で笑うべきものに「何の恥じらいもなく真正面から取り組むことによって、一般のアカデミックな神学者には明かされなかったような神の国の真実が、彼に対しては開き示されるのを、われわれは見て来たと思う。」と言います。
 カール・バルトもまたブルームハルト父子に対しては批判を交えながらも終生敬慕していたといいます。
 片や滝沢先生は、聖書の世界とはなんら無関係の新興宗教の「手かざし」を哲学として(こころ・からだ・社会の問題として)語りました。そこからキリスト教との対話の道も探りました。滝沢があの本を残さずにこの世を去ってしまっていたら、はたして後の私たちが滝沢に縁ある仲間の集まりの場で、そういう話題を持ち出す勇気があったでしょうか。
 たとえば輪廻転生、未来の予言、いや伝統的な仏教の中でも、極楽往生、観仏の体験、これらはもはや「恥ずべきもの」かもしれません。話題に出たので輪廻転生を例にとれば、もしも前世の記憶を保持する人の証言を誰もが検証できる形で真実であると証明できたとすれば(実はすでに出来ていて、私もそれを率直に信じる一人ですが)、滝沢先生もきっとその事実を認め、クリティカルにその事実の意味するところを論じたに違いありません。

 私たちに難しいのは 書店で「精神世界」の棚に分類されるジャンルの出来事を、非社会的引きこもりや反社会的カルトに陥ることなく、一般世間の中でまっとうに(できれば周囲との軋轢なく平穏で物心豊かに)生活しようと願う者として、どんな積極的な意味を持って受け入れられるのかということです。

 ブルームハルト父について読んでいて、彼の人となりと発言――いわく、偽りの敬虔深さを嫌い、牧師臭さから自由であった。私たちが単純であることを思い起こさせ、生活になじまないような敬虔深さは忘れろ、と言い、人間の完全な無力さの自覚と神の全能に対する単純な信頼からくる「祈り」だけが人間の苦悩にただ対抗できる手段だ、と語った言葉の、なんと法然上人に酷似していることかと今回初めて気づき驚きました。ちなみに法然とは「南無阿弥陀仏」と口に発声しさえすれば何の努力も善行も勉強もしないで仏の国に生まれることが出来るという、極楽浄土に行くより先にへそで茶が沸くような教えを広めた僧侶です。

 「荒唐無稽」な行為や教えを堂々と行い説いた彼らが、あるいは滝沢先生が晴明教の教会で出会った指導者や信者さんが、誰よりも自然で自由な人たちであったという、そういう生き方が 今回話題にのぼった「精神世界」ジャンルからどのように導き出されるか。安心立命の足場はどんな場所か、私のからだがその教えを聞こうとしているか、その世界の現象がキリスト教や仏教やましてや滝沢克己と一切無関係であればあるほど、私のいま生きる環境と共存できるか、またはどういう反省を迫ってくるのか…この件について私の関心は現在そこです。 

 (話が結局まとまらないので 最初Joyさんのコメントとして記入しましたが、勇気を出して久しぶりに本文へ投稿します。)



01:27:47 | joy | 2 comments | TrackBacks

22 May

逆 縁

寺日誌 子が親に先立つ不幸を「逆縁」といい最大の親不孝とされ、昔は親は子の火葬に立ち会わないものとされていました(親不孝ものだからか、いやあまりに悲しいからだ)。ここの田舎でも少し前まではそういう風習が稀にですが見られました。室生犀星にも、幼くして逝ったわが子の火葬には行かず、ひとり縁側で亡き子の下駄を見て涙する詩があります。
 さてこれから述べようとするのは、仏教でいう所のもうひとつの「逆縁」です。それは 仏の教えに叛き・謗る行為や言動が反対に仏の道に入る縁になることを指します。お釈迦さまに刃向っていた者が反転、釈尊の教えに耳を傾けていくエピソードもあります。
 最近、滝沢協会の掲示板(これは「ブログ」です。「掲示板」の方です念のため)が醜悪な日本語の羅列で荒れてしまい、一読胸のわるくなる思いを味わいました。「いっそ掲示板を一度閉じるべし」という意見に対し、当の管理人氏は「このままもう少しやらせてほしい」と言った由。「縁なき衆生は度し難し」という考えに慣れてしまっている私などは、管理者は編集権を強く行使し、ばさばさと投稿を削除していくべき!!と思っていましたが(掲示板の閉鎖はそれに比べればはるかに良心的)、どうも自分の気の短さに今さらながら気づいた次第です。
 掲示板とは本来、管理者の裁量が表現の自由に優越する世界であって、メディアとしての限界を嘆くよりも、所詮その程度の(情報操作などあって文句の言えない)ものとして、メディアリテラシー上よくよく自覚しておく必要があると思いますし、滝沢協会の掲示板といえども例外なくそうだと今も思っています。
 しかしながら管理人氏は忍耐を以って協会の掲示板に対する姿勢を説きました。感動したというとオーバーですが、ちょっと心を動かされました。そこにはいかなる誹謗中傷といえども表現した者に対する愛(のようなもの)があります。
 先ほど協会掲示板を覗いたところ、「正常化」に向かっていく兆しが見られました。
 「宗教間対話」などと口にしてみても、自分の話が通じなければちゃぶ台をひっくり返しているようでは(拙僧はひっくり返したことはもちろんないが…、そんなちゃぶ台も今はないが…)、誰がそんな話に耳を貸してくれるでしょう。
 「たがいに順逆の縁むなしからずして、一仏浄土のともたらむ」(『黒谷上人語灯録』)。道光上人の編纂した法然上人の語録にそうありました。<『岩波仏教辞典』参照> 
 自戒しきり……     合掌
18:38:13 | joy | 1 comment | TrackBacks