Complete text -- "逆 縁"

22 May

逆 縁

寺日誌 子が親に先立つ不幸を「逆縁」といい最大の親不孝とされ、昔は親は子の火葬に立ち会わないものとされていました(親不孝ものだからか、いやあまりに悲しいからだ)。ここの田舎でも少し前まではそういう風習が稀にですが見られました。室生犀星にも、幼くして逝ったわが子の火葬には行かず、ひとり縁側で亡き子の下駄を見て涙する詩があります。
 さてこれから述べようとするのは、仏教でいう所のもうひとつの「逆縁」です。それは 仏の教えに叛き・謗る行為や言動が反対に仏の道に入る縁になることを指します。お釈迦さまに刃向っていた者が反転、釈尊の教えに耳を傾けていくエピソードもあります。
 最近、滝沢協会の掲示板(これは「ブログ」です。「掲示板」の方です念のため)が醜悪な日本語の羅列で荒れてしまい、一読胸のわるくなる思いを味わいました。「いっそ掲示板を一度閉じるべし」という意見に対し、当の管理人氏は「このままもう少しやらせてほしい」と言った由。「縁なき衆生は度し難し」という考えに慣れてしまっている私などは、管理者は編集権を強く行使し、ばさばさと投稿を削除していくべき!!と思っていましたが(掲示板の閉鎖はそれに比べればはるかに良心的)、どうも自分の気の短さに今さらながら気づいた次第です。
 掲示板とは本来、管理者の裁量が表現の自由に優越する世界であって、メディアとしての限界を嘆くよりも、所詮その程度の(情報操作などあって文句の言えない)ものとして、メディアリテラシー上よくよく自覚しておく必要があると思いますし、滝沢協会の掲示板といえども例外なくそうだと今も思っています。
 しかしながら管理人氏は忍耐を以って協会の掲示板に対する姿勢を説きました。感動したというとオーバーですが、ちょっと心を動かされました。そこにはいかなる誹謗中傷といえども表現した者に対する愛(のようなもの)があります。
 先ほど協会掲示板を覗いたところ、「正常化」に向かっていく兆しが見られました。
 「宗教間対話」などと口にしてみても、自分の話が通じなければちゃぶ台をひっくり返しているようでは(拙僧はひっくり返したことはもちろんないが…、そんなちゃぶ台も今はないが…)、誰がそんな話に耳を貸してくれるでしょう。
 「たがいに順逆の縁むなしからずして、一仏浄土のともたらむ」(『黒谷上人語灯録』)。道光上人の編纂した法然上人の語録にそうありました。<『岩波仏教辞典』参照> 
 自戒しきり……     合掌
18:38:13 | joy | | TrackBacks
Comments

だんま wrote:

 逆縁に二義あること、はじめて知りました。一義の方でしか知りませんでした。その一義の方でちょっとコメントします。
 一義では何といっても謡曲『墨田川』が思い出されます。あれほどの悲しみの形象を私は外に知りません。絶望の極みですね。墓を暴いて息子に合わせてくれ、という母親の情念は、人間の限界を浮き彫りにして宗教的な厳粛さに直面させます。そういえば、その後は行路の人も加わっての大念仏になります。念仏がそういう情念に拮抗しうるもの、人を狂気から救うものだということが、あの徹底的に救いのないドラマの強烈なメッセージだったのでしょう。そういう仕方でしか人間は死者を慰霊できない。
 昨年読んだ本で印象に残ったものに波平恵美子の『日本人の死のかたち』(朝日新聞社)があります。日本人としてのわたしの死観、死者・遺体観、したがって霊観にもっともフィットしたもので感銘を受けました。養老さんの死の壁も、鷲田さんの教養としての死も、柳田邦男の二人称の死も、こういう深みに届いていません。
 それはともかく、そこに「逆縁」の習慣が書かれており、わたし自身息子を亡くした親として、考え込み、いままでの弔い方を改めようと思った次第です。もちろん室生犀星のようなことは考えませんが・・・
 それにしても遺体に対する日本人の執着は文化人類学的に見て強いもののようですね。先年、沈黙の宗教として儒教が話題になりましたが、それとは別に日本人の感性が靖国問題にも流れ込んでいることがよく判りました。あ、そうそう、高橋さんの靖国問題、未読ですので、この辺で。
 二義に触れられず、寺日誌さん、ごめんなさい。
05/23/05 02:03:47
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