Complete text -- "一陽来復・聖人降誕"

24 December

一陽来復・聖人降誕

寺日誌:一陽来復という言葉があります。「易学」に出てくるそうで、この日を境に畳の目ひと目づつ日脚が伸びていく冬至の日を指し、易では、悪いこと(陰)が極まってよい方(陽)にむかっていくことを同時に意味します。春に向かって踵を返すための冬至の早い日暮れは私も好きです。クリスマスの日を、ローマ土着のこの一陽来復の祭りにぶつけて設定したのは、(嫉妬を込めて言わせてもらうと)極めて良いアイディアでした。

新聞によると若い人のクリスマスの過ごし方が変わってきたそうであります。高価なプレゼントを用意して愛する人とどこかで待ち合わるというのではなく、家族と過ごしたり、あまりお金をかけずに小さなパーティーを開いて仲間と過ごすという風に。「変わってきた」と言っても、聖しこの夜にしょせん祈りが欠如しているのですから、どこも変わっていないわけでありますが……寺に居てクリスマスの事なんか書くから何だか「小澤昭一的こころ」みたいになってきた……。

私は異教徒でありながら、聖母マリアの(←歳暮マリアと変換してきた!)処女受胎を、子どものように事実として素直に信じています。教会の聖職者の方々にはこの意味論だけは哲学者然と述べるものの、実際には信じていない方も少なくないと聞きます。信仰が足りませぬ。滝沢先生も、イエスの癒しの事実は受け入れても、マリアの処女受胎は史実だったろうと真正面から言わないのは公平さを欠いている、と思います(イエスの復活についてもまた然り)。しかしこれは滝沢の文脈とはなんの関係もありません。

『聖書を読む』(創言社)の滝沢の読みの凄みは、このように史実として信じているといってもそれだけでは意味がない、意味論だけ説いていても本当に分かったことにならない。マリア(の胎内)を通して起こった出来事――まったく有無をいわさぬ強引きわまる一方性――はわれわれの中にも起こることだと言い切ったことです。絶対に信じるものかと意地を張っていても(あるいは自分では十分に信じているつもりでも)、それはたぶんまだ天使のお告げを受ける前のヨセフ・マリア夫妻の状態にしか過ぎないというだけです。

キリスト者が異教徒の信仰に単に理解を示したり、類似点を見出したりすることは決して、教会の外の救いの可能性や相互信仰の可能性にすぐつながりません。「教会の外の救いの可能性」とは「教会の内で救われているつもり」の安住に警策をふるうものです。同じことは「寺」に対してもいえます。滝沢の怖さです。

でも今日はクリスマス・イブです。布団に入る前に、聖書の一節を一読いたしましょう。
「…彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2−6,7)

19:13:59 | joy | | TrackBacks
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